写真家 鈴木高宇 フォトエッセイ

大場さんの補給フライトがない間、私は周辺を散策する日々だった。寒さなんてなんでもない。至って元気のはずが、初端から風邪をひいてしまった。それは東京へ送信するテスト写真も気のきいたものを撮ろうとしていた矢先のことだった。防寒対策に不備はないが、やはり北極の寒気は殺人的だ。屋外に出ると数分でまつ毛と髭が自分で吐いた吐息で凍てつく。それもパリパリに。正直、痛い!の一言だ。


防寒対策はこうだ。下着はポリエステル素材。Tシャツも。シャツは毛、フリースにセーター、そして外壁はゴアテックスのダウン。ダウンも半端でない厚みだ。40度は平気な厚着である。それで風邪をひいた原因はたぶん汗が冷えてしまったせいだと思われる。歩く時は服の内部が高温になる。そしてどうしても撮影中はじっと静止してしまう。かいた汗はゴアテックスの外壁でパキパキに結晶と化す。そこで体温が著しく奪われる仕組みだ。歩く時間が長い場合、ダウンは着ずに、ただのゴアテックスのアウターシェルのみである。このバランスがなかなか難しい。


早速、日本から持ち込んだ風邪薬を飲んだが、これがまったく効かない。そうこうしている間にも画像を送れと本国から指令が来る。ひとつしかない回線を夜間占領し、徹夜して送り続けても駄目だった。あげく朝までやっているものだから回線の問題で顰蹙をかってしまった。女将さんには、オージーザス!これはまずいと思い、中断したが、多大な迷惑をかけてしまったのである。あげくこの風邪である。先発したスタッフからも非難轟々だ。

後日談ではあるが、送信できなかった理由はモデムの関係だった。事前には、もし可能だったら送信してくれ、って話が、いつの間にか絶対命令に変更されていた。この板挟みには正直しんどかった。私は36時間寝込んでしまった。飯も食わずに寝込んだのは久々のことである。こんなことは、過去滅多にあったものではない。まさに汗顔の至りである。


レゾリュートには唯一コープが一店ある。そこはライフルから日用雑貨のすべてをタイトに揃えている。もちろん薬剤も。最後の頼みの綱で、私はふらふらしながら風邪薬を買い求めに行った。やり取りは簡単だ。ノーズorヘッド?要するに鼻風邪か頭痛風邪かって質問が来たのだ。私はノーズ、と答えただけ。少し高価だったけれど、私は鼻風邪の薬を買い求めた。初めて使ったトラベラーズチェックに日本語でサインしたら漢字を珍しそうに見られた。子供たちには、お前は忍者か???などと質問される始末。で、ま、そうしましたら、これが効く!ものすごく効く!ただ副作用もすごかった。ほとんど睡眠剤のような睡魔なのだ。3日間、私はなにもできなかった。そんな私に対するスタッフの怒りも凄まじかった。今大場さんの補給機が飛び立ったら、君は乗れないのだぞ!と。ごもっともである。私は自分の体調管理の甘さを思い知った。3日間はおとなしくしていたが、そこはそれ、カメラマンとしては非常に魅力的な雪原なのだ。またフラフラと撮影に出かけてしまった。

気温40度、風速25m、体感気温マイナス55度。レゾリュートのホテルの北側には小高い丘がある。私はいつもその丘へ登っていた。丘といっても標高200mはあるだろうか。そこは風の通り道。いつも凄まじい風が吹いていた。白夜の夜は一晩じゅう夕日のような朝日のような太陽が地平線で輝いている。何物にも例えようのない美しい光景だった。ブリザードは夕日に赤く染まっていた。


私はいつものようにカメラを取り出した。いつも同じ光景ではないのが北極。ただの平らな雪原なのに、その姿は変幻する。この辺は日本人的鑑賞なのだろうか。ホテルを出て1時間、カメラにフィルムを詰めて夢中でシャッターを切る。この世のものとは思えない世界だ。

しかし、次の瞬間2台のカメラは動かなくなった。一台はバッテリーがアウト。もう一台はフィルムがツマッタようだ。裏蓋を開き、フィルムを取り除こうとすると、パリン!フィルムは粉々に砕け散り、風と一緒に遥かかなたまで吹き飛んでしまった。

暫し呆然とするが、気を取り直してフィルムを詰めなおすが、もう入らない。どうやら1台故障したようだ。ここは冷静に予備機にフィルムを詰め、レンズを交換する。同じ機種は最低2台必要な所以はここにある。私は慌てることなく坦々とシャッターを切る。素晴らしいシーンだった。後にも先にももう、二度と見せてくれない世界だった。

それにしてもフィルムって綺麗に割れるのですね。まるでマイナス40度で凍らせた薔薇の花弁が割れるかのようだった。しかし、細かい作業はすべて素手でやるのだから、撮影はやはり手が痛い。

初端からこのような問題児なので、先発していたスタッフとはいつしか不仲になっていた。この野郎!と、思われていたのだろう。いつしか現地での情報が得られなくなっていた。完全に無視されてしまったのだ。これは正直しんどかった。本国からはなんで写真が送られてこないのだ!と。理性混沌。欲望矛盾。激しい束縛の中意味が見出せなくなってしまった。一番困ったのが大場さんの現在位置がわからないこと。それを教えてもらえないことは、いつフライトがあるかわからないことを意味する。つまり、お前は乗らなくていい、というような意味合いに感じられた。それは遂に険悪な仲になってしまっていた。私は軽い鬱状態。普段から会話が失われていた。


私は当時新婚であった。当時、とは現在バツイチであるからだ。国際電話はたまにしか入れなかった。そのたまにしかしない電話で嫁さんは怒り心頭。なんで二週間もたったのに帰ってこないのだ!早く帰ってこい!撮影なんかどうでもいい!と。ま、裏を返せば、東京で一人寂しかったのだろう。だが、当時の私にはこの言葉は酷く傷ついた。現地でいじめられ、嫁には応援されず、本国からは、画像データのひとつも送信できないのか!と。まさに四面楚歌、または孤立無援ともいう。要するに自力ですべてを打開せねばならなかった。


テリーさんにはいつしか英語で愚痴っていた。あれ?自分は英語で愚痴れるのだと思った。テリーさんは優しく微笑みながら、大丈夫心配ないわよ。鈴木さんのピクチャーストーリーはきっとうまくいく!と、励ましてくれた。嬉しかった。オー、ジーザス!とまで言われたのに。こんなとき、人間関係を素早く読み取って気をきかせてくれてスタッフと相部屋だったのを解消し、個室にしてくれたりもした。


あまりやりたくはなかったのだが、人の話に聞き耳を立てるしか方法はなかった。ごめんなさい、とも謝った。私のことは本国にも報告され、担当編集からは、とにかく謝れと。ただ自分はなんで謝らなくてはならないのか理解に苦しんだ。真意で謝ってはいなかった。とにかく、形だけでも元の状態に戻したかった。しかし、謝っても情報は得られなかった。だから聞き耳を立てる。ここレゾリュートでも他に北極点を単独徒歩で目指している冒険家がいて、そのスタッフと話し合っている会話が日本語でたまに行き交うのだ。その遠くで話し合っている会話を一瞬でも聞き逃すまいと必死だったことを強く覚えている。

これが英語になるとちんぷんかんぷんで、日常会話は何とかわかるのだが、交渉事がよくわからなかった。ただ、その緊張感のある会話で大場さんが大変なことになっているのは良くわかっていた。だからスタッフもピリピリしていたのだ。私はそれはやつあたりだと思っていた。とにかく一方的に怒りまくる人だった。これは間違いであってほしいと思う反面人間不信に陥ってしまっていた。鬱は日増しに酷くなる一方だった。ただ、この鬱状態は本国には報告できなかった。あくまで突っ張るしかなかった。


みんなが力を合わせて補給部隊として成功させなければならない中、この辺りの解釈は、13年たった今も釈然としないものがあり、また見解の分かれるところであると思う。それぞれ言い分もあるし、大場さんのピンチの最中の出来事だから余計人間感情が剥き出しになる世界でもあるのだ。北極とは究極人間の本性が現れてしまう場所なのかもしれない。それから私はフリーになって13年たつのだが、常に下端の年下で、新人が入ってきにくい世界であるため、未だに物事を言いやすいタイプなのだろうか、言いたい放題言われやすい。私に対してぶち切れる人は後を絶たない。よって私は突っ張るしかないのだ。まあ、この人との出会いで、かなり無理を言う人や、いきなりキレル人と出会っても、ある程度めげない原石が磨きあげられたのだろうか。そんな気がする。

ここレゾリュートでは、庭先でちょいと雪かきするにもおおごとである。本当に、本当に、ちょっとの時間の外出でも完全防寒具をフル装備しないと凍傷になってしまう。雪かきといっても、積雪は意外にそれほどでもない。ほとんど風で吹き飛んで行ってしまうからだろう。テリーさんが完全防備で何処へ行くのかと気にかけていたら、単に庭先で少しの雪かきをするためだけだったのだ。ここでいう完全防寒とは、たぶん日本では北海道でも滅多に見かけない姿となる。頭も耳まですっぽりおおい、マフラーも当然ぐるぐる巻き。そうしないと、ここでは簡単に凍傷になってしまうのだ。


実は自分はちょっとした不注意で耳たぶを凍傷にしてしまった。屋外で一時間くらいだろうか、散歩して帰ってくると、みんなに指摘されたのだ。凍傷になっているよ、と。ま、それは軽い凍傷で、少し茶色になっただけでどうということはないのだが、油断だった。これがもう少し長時間になると火ぶくれを起こす。自分の場合、ちょいと帽子がずれていただけなのだ。もちろん、歩いていて暑いからといって帽子を脱いでしまうと頭は頭痛を起こす。帽子をかぶっていても、そう、ちょうど真夏にカキ氷を一気食いして、頭がキーンとするのに似ている。

フィルムも割れるとは聞いていた。今回35mmは割れなかったが、ブローニーのロールフィルムは一回だけ割れてしまった。フィルムベースが35mmより薄いため割れたのだと理解している。北極で一番楽なのはポケットカメラを防寒着の内側に入れておくことである。氷点下にさらされることには違いないが、マイナス10度とマイナス40度では、それくらい物質の変化が異なる。現在ではデジタルカメラが主流で、しかもバッテリーが優秀で、いきなりダウンすることはない。


もちろん、撮影ショット数は格段に減少するだろうが、この時代のデジタルカメラのバッテリーでは少々厳しかったとの話を聞いたことがある。現在のリチウムイオンはなかなかの電池であるようだ。


それでも、この過酷な自然環境は自分の好みであったようだ。とにかく好きなのだ。この白く美しい凛とした、という言葉を超えた世界が。

もちろん、数時間でホテルに帰ってくることができる安心感が、いや、甘えがあったからであることは想像のとおり。これが屋外でテント泊となるとただ事では済まない。実は一度だけホテルが満室になり、宿泊を延長に延長を重ねていた自分は一度出なくてはならなくなったことがある。しかし、フライトのチャンスを逃すと、どうなるかわかったものではないので、スタッフと同じホテルに滞在することにした。


滞在、といっても暖房設備のないガレージである。はい、ガレージで眠りました。風が吹き込まない以外、屋外とほとんど変わらない。気温はマイナス20度以下。寒冷地用のシュラフを2重にしたのだが、正直寒かった。なんなのだろう、国内のマイナス20度とは明らかに異なる寒気なのである。そんな時は大場さんの苦労を思うと、寒いなんて言っていられなくなるのであった。


ホテルの中にも冷蔵庫や冷凍庫がある。冷蔵庫はともかく、冷凍庫は要らないだろうと思われるが、実はそうではない。やはり食品の種類によって解凍しやすい温度や保存しやすい温度があるようなのだ。例えば、アイスクリームをマイナス40度で保存してしまうと、食べるとき、非常に困る。なかなか融けてくれないからだ。かといってレンジでチンすると外側が思い切り融けてしまう。


レゾリュートは海岸線にあり、湾になっている。レゾリュートベイが正式な名称だ。ここは夏、氷山が流れてくる。それは冬季、そのまま海と一緒に凍りつくのだが、ブルーの綺麗な氷で少し舐めてみたくもなるのだが、これも危険だ。舌が氷とキッスして離れなくなってしまうから。当然素手で触るのも止めた方が良い。素手で氷に触れると、冷たい、ではなく、痛い!!なのだ。

当然、カメラ機材の金属部分はかなり注意した。三脚は当時としては出始めのカーボンだったが、金属部分に素手では触れないよう注意していた。


ただ、これらのことは、注意書きを読まなくとも自然に理解できるものである。もちろん知っているに越したことはないが、人間自然と察知するものである。子供の場合、北極に限らず、初めて行く極地では注意は必要だろう。ただし、北極の子供たちは元気だ。かなり薄着の子供も夜になると元気に外で遊んでいた。私もすいぶん一緒に遊ばせてもらった。それでも風邪をひいてしまったのは、本当に汗顔の至りであった。

ここレゾリュートには毎年冒険野郎が集うことは先にも述べた。この年は、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ニュージーランド、ノルウェー、などである。

フランス人は若き青年が北磁極を単独で目指していた。北磁極は、文字通り北極点ではなく、磁力の発信点である。そこはレゾリュートから近くにあった。その支援スタッフが恋人のイリーシアである。この発音は日本人には少し難しい。だが片仮名にするとこうなってしまう。この発音のレッスンは少し時間がかかってうれしかった。案の定、イリーシアは私のことを、タカーネとなってしまう。

イリーシアは自炊で宿泊しているようで別棟に宿泊していたので、なかなか会う機会はなかった。ある晩、彼女とキッチンでフランス語をレクチャーしてもらった。私は代わりに日本語を教える、という塩梅だ。え?いつの間にそんな語学力がついたのかって?それは愛に国境はないからです。

愛さえあれば、言葉の壁も乗り越えられるし、この北極での苦闘は安らぎを得られるのだ。なんとキュートで美しい瞳。スレンダーでフォトジェニックなフォルム。私はたちまち一目惚れ。というのは冗談で、フランス語圏のフランスでは英語がペラペラな人は少ないのが実情のようだ。イリーシアとは語学力が同等でなぜか気が合っていた。私は当時26歳。彼女は20歳。フランスでは24歳にならないと大人として認めてもらえないことなど、白夜の深夜ずっと話していた。日本に遊びに来る時は泊まっていい?と、いうから嫁さんもいるので紹介するよ、と、そんな話もしていた。約束は未だ果たされていない。

しかし、こんな同等の語学力で普通に世界を旅しているのだと思うと勇気が湧いてきた。イリーシアにできて自分にできないはずはない。そう思うことにしたのだった。