写真家 鈴木高宇 フォトエッセイ

私の寝室にはぼろぼろの大切なノートがある。北極での滞在を書き記した日記である。それを再びひもとくことはないだろうと思っていた。なにせ、初海外で、いきなり北極点に飛べ!なのだ。そして、つらかった当時の心情が書きなぐってある。過酷な極北の寒さよりも人間関係の辛さのほうが勝っていたからだ。ただ、外国人のフレンドリーな人情味の温かさは骨身に沁みた。

13年の封印は解かれた。墓場まで独りで背負っていくつもりの内容だったからだ。しかし、自分の心情というものを書き記してもおきたかった。

今回、HP開設にあたって、何か読み物があっても良いのではないだろうかと思案した結果、今まで封印していた過去の記憶を掘り出しても良いだろうという気持ちになった。見苦しい点もあるかもしれないが、最後までご愛読いただければ幸いだ。

冒険家、大場満郎さんがロシアからカナダまで単独徒歩で、北極海を横断するのに資金が600万不足していた。しかも4度目の挑戦である。その600万を原稿料先払いという形で決定したのは年も迫った年末のことである。そこで、極地からの写真も欲しいとの話が持ち上がったのだ。ところで高宇君、語学力は大丈夫?との話になった。はははは!大丈夫ですよ!なんとかなります。一同シーンとしてしまう。自慢じゃないけれど正直英会話はカラッキシ駄目。

英語のテストは中学から大学まで赤点のオンパレード。 ただ、何事にも動じない芯だけは持っていた。しかし海外旅行は一度も経験がない。お前!ハワイくらい行ったことないのかよ!と、突っ込まれどころ満載。そこで初めてパスポートを取るのだが、北極行きの話はいつの間にかなくなっていた。資金がそれなりにかかるからだ。それから間もなく、大場さんは意気込んでロシアに飛び立った。


大場さんは、スタート早々トラブルに巻き込まれ、順調なスタートとは言えなかった。でも、今度こそは!の意気込みは、なみなみならぬものが感じられた。しかし、北極海は人間の生きることを拒絶する世界。通信手段もイリジウムなんてなかったし、あっても使えるような装備費用として用意できなかったのかもしれない。この辺の記憶が曖昧で、現在私の脳は病気の関係で記憶を司る中枢に障害をきたしかけている。ま、軽い物忘れ程度なのでご心配なく。


朝日新聞には、ロシア北極海を、橇を引いて出発する写真が掲載されていた。編集はどうしても、スポンサーとして自社の写真が欲しかったようだ。ある早春の寒い日、暗室でプリントをしていると、高宇君、ギャラ出せないのだけど、北極行ってくれる?と。私は迷わず一言。行きます。


覚悟はできていた。男はいつかやらねばならない時がある。言葉ができない。海外経験がない。そんなこと言っていたら、男はいつまでたっても何も成し遂げることはできないのだ。寒冷地は経験がある。国内の雪山を1週間テントで生活なんてザラ。寒さには強かった。

ただ、ここで問題が起きた。当時出版社で暗室マンという、アシスタント輩を海外実践経験のない人間にいきなり北極行きという重要な仕事をさせて良いのかという問題が社内で沸き起こったのだ。まあ、それは一部の人間の責任逃れのための発言としか言いようのないことなのだが。


社内のスタッフとして北極に行くのが問題なら、私は今の仕事辞めます!と、一言言った。もともと社員でもなんでもない、ただのアルバイトなのだ。

こうして裸一貫となって、北極行きが決定した。なに、問題は何もない。冷静に考えて、ただの極寒の北極点に行って、シャッター切ってくるだけじゃないか。そんなに難しいミッションではない。それに、アシスタント生活は満4年。正直旅立ちの時期だった。何もかもが晴れやかで、心は北極の青空のように凛としていた。

段取りはこうだ。成田からU.S.A.ソルトレイクシティーからカナダ、エドモントンへ行き、そこから世界最北にあるジェット機が発着できる空港レゾリュートまで行き、レゾリュートで大場さんの補給機に便乗して北極点で撮影するというものだ。簡単でしょ?子供でもできますよ。

写真の送信はこうだ。当時もデジタルカメラはあったが、何百万円もするうえ、画質が酷く悪く、使い物にあまりならない。よってネガカラーフィルムを、現地にて自分

で現像し、スキャナーでスキャンしPCで送信。簡単でしょ?でも、当時私はPCを使ったとこすらなかった。当然ネガカラ―で、スキャンもやったことはない。いや、当時は海外へ行く通信会社の人間しかやっていないことをやることとなったのだ。それを全部一夜漬けで覚えこみ、マスターしたのだ。今では誰でもできる当たり前のことが、当時は大変だったのを覚えている。


現像はホテルのバスルームを借り、暗室にしてそこで現像するのだが、成田で問題が起きた。現像液が引っ掛かったのだ。この薬品は駄目です、と。こちらは必死だった。この薬品がないと北極から写真が送れない。北極点到達は大場さんにとっては通過点でしかないのだが、単独徒歩横断では世界初となるので、北極点到達はやはり重要な意味を持つ。

願いはかなった。力説して、なんとか、強引に納得してもらったのだ。現在ではこんなこと絶対ありえないだろう。

両替もした。初めて触るカナダドル。そしてトラベラーズチェック。そして搭乗。

シートに座ると機材がラックに入らない!席は空いていたので仕方なく置いていたらスチュワートさんに、ノーグッド、でも、あなたはラッキーよ、と言われた。 何もかもが初体験ばかりだった。そしてついに機体は飛び立つ。期待と夢を背負って。何万トンもの鋼の機体がガタガタと揺れながら飛び立つ瞬間は今でも好きだ。フワッとしたあの瞬間、アマッ娘を抱いたってああはいかない。眼下には田園風景が広がっていた。これが空から見た成田闘争の現場。機はぐんぐん雲を抜いていき、機体は急旋回しながら高度を稼ぐ。夕日が逆光になって機内に差し込む。初めての空からの光景は想像どおりで、すべてが美しかった。

カナダの北極圏、ジェット機が発着できる最北の地、レゾリュート。何処にあるのだろう。高校時代の世界地図にはない。新宿、紀伊國屋の地図売り場に行く。そこにも北極圏の地図は大雑把なものしかなかったが、レゾリュートが何処にあるのかだけはわかった。地球儀を思い浮かべてみよう。するとだ、ほとんど天辺、地球の頭にあるのだ。これには驚いた。オーロラは北極圏だとイエローナイフなど、南極だと昭和基地など、極点からかなり離れたところに、天使の輪のように地球の南極北極同時発生する。これをオーロラ帯と呼ぶ。オーロラは、このオーロラ帯の真下にいないと見られない。レゾリュートは、この遥か内側に位置するのだ。オーロラも見られるのだろうかなんて甘い考えは吹っ飛んだ。


情報ではこうだ。人口150人ほどの村で、わずかなイヌイットの人々と、気象観測所の研究者、それに石油関係者が居るだけで、ほかはなにもない、木一本ないところなのだ。世界中の冒険野郎はこれを見逃す手はない。北極点への冒険のベースキャンプには打ってつけの場所なのだ。日本だと植村直己が有名だ。


私は、大場さんの補給機フライトまで、ここレゾリュートでイヌイットの人たちと暮らすこととなる。私のレゾリュート滞在はひと月半に及ぶが、それは、まだ誰も予想もしなかったことである。予定では2週間の滞在だったからだ。


エドモントンで、この北へ向かう中型ジェット機に乗り換える。空港は成田よりでかくて広い。巨漢の御爺さんがゲートまで道案内してくれた。ただ近くにいた。それだけだった。何気に話しかけてきてくれて、ゲートまで連れて行ってあげるよ、と。うれしかった。この国ではこうゆうことは、ごく普通なのだろう。自分も日本で困っている外国人には、なるべく話しかけるようにしているが、ま、語学力が酷いのは後に紹介する。

機にカメラザックを積み込もうとすると止められた。何を言っているのかわからなかったが、機内に入れられないことだけはすぐに理解できた。でも、なぜ駄目なのかがわからない。私は必死にカメラを手にとって説明した。これはとっても高価で壊れやすいものだから、と。すると彼らは大きな段ボールに発泡スチロールを割ってクッションにし、その中へザックを梱包した。ま、私の語学力は恥ずかしいけどこんなもの。ただ、意思を伝えることだけは確実にできるのだ。機内に乗ると理由はすぐ理解できた。とにかくすべてが狭いのだ。手荷物なんてバックひとつじゃないと無理だった。スタッフに迷惑をかけて申し訳ないと思った。


この機は、真っ直ぐ北へ飛ぶのがわかる。しかも地球が丸いのもわかるのだ。真っ青な青空に、一面の雪原。日本では見られない、大きく蛇行する川と無数の三日月湖。飛び立ったのは昼間なのに、太陽がだんだん南に下がっていく。太陽は機体の後ろから照らし出す。実に面白い。


成田から東へ太平洋を越え、ロッキー山脈を越える。成田を発ったときは夕刻だったのに朝日が、だんだん東側からやってくる。エドモントンへ北上したときには、ヘールボップ彗星が私を迎えてくれた。日本からはほとんど観測しにくい巨大彗星が、ここでは大きく天高く見える。そして北極、レゾリュートへ着いた。日本から一日半の旅だった。先着したスタッフ、ホテルの女将であるテリーさんと、他の冒険野郎スタッフが私を迎えてくれた。うれしかった。


北極圏の寒気は日本のそれとは異なった。同じマイナス20度でも、とにかく露出した肌が痛いのだ。こちらでは気温の表現にマイナスは言わない。北極では、いちいちマイナス何度、とは言わないのだ。20度と言ったら、マイナスなのが当たり前。


ダイヤモンドダストがキラキラと夕日に輝いていた。40度とかになると、寒過ぎて見られないのだという。シボレーのトラックでホテルまで送迎してくれた。クルマはすべて建物から電源をとる。接続していないとバッテリーは一発でアウト。玄関の扉は分厚く二重になっている。建物はホテルというより日本のペンションがぴったりだ。ちなみにこの建物、グーグルの衛星写真からも確認ができた時は、懐かしくうれしかった。まず、北極について一番やりたかったこと、それはバナナで釘が打てるか、だ。早速バナナを一本拝借。しばし屋外に放置する。すぐにカチンコチンにはなるものの、釘が打てるほどではない。が、もう少し時をおくこと3時間。できました!ハンマーのような硬さのバナナが!打ちにくいけれど確かに打てる!これには感動した。


北極の地面は堅雪で堅くしまっている。歩くとキュッキュッっと小気味良い音がする。日本のようにカンジキは要らない。沈むことがないからだ。これはブリザードによって雪が地面に叩きつけられるためだと思う。ここは一面の雪原と海岸線には氷山の欠片とブリザードが吹きすさむだけの世界なのだ。私はこの世界がいたく気に入った。レゾリュートは島である。N74度44分、W95度00分。ぜひ、探してみてください!